コミュ力の誕生

就活が本格化するこの時期、色んな雑誌が「どうすれば内定が取れるのか」をほのめかす記事を書く。

AERAのある記事によると、とりあえず「人の話を聴けない学生」コミュ力がない」とみなされるそうだ。

 

コミュ力」「人間力」による選考では「落ちた理由」が明かされないから、就活生は不安と劣等感にさいなまれてしまう。「人間力がない」と言われて進化の過程をやり直せるわけでもなく、かといって具体的な解決策が与えられるわけでもないのが現状である。

 

ところで、この言葉が登場したのはつい8年ほど前の、2003年。

 

1996年に中教審の第1次答申「生きる力」が登場し、ゆとり教育が完成した。「生きる力」とは、【確かな学力/体力・健康/豊かな人間性】三位一体のことだった。

 

しかし「ゆとり教育批判」が巻き起こり、2002年をピークに「生きる力」は求心力を失っていく。代わって登場したのが人間力というわけだ。



96年に誕生した「生きる力」には、すでに「豊かな人間性」という曖昧な文言が含まれていたのである。

 

コミュ力」的なものが重視される背景には、よくいわれるようにR・ライシュが指摘した「ニュー・エコノミー」の台頭がある。 

 

ニュー・エコノミー下では、一部の創造的な仕事をする集団(例:大企業のマーケッターとか)と都市インフラを支えるサービス業(いわゆるマック・ジョブ)に従事する人びとの経済格差が大きくなる。

 

さらにこの競争に負けた人びとを納得させるロジックは、これまでの学力」に代わり今や「人間力」という(超)曖昧なことばに置き換わっている。

 

たしかに「創造的な仕事ができるかどうか」なんて「コミュ力」としか表しようがないのかもしれない。

 

おまけに「○○力」という曖昧な概念は、それが備わっていないと見なされた結果、下位に甘んじている集団に対して「自分は○○力がないからダメなんだ、仕方ないんだ」と思い込ませることができるのでたいへん便利である。

 

今年もこの曖昧な概念に振り回されたあげく、12万人が内定先が決まらぬまま大学を卒業すると見られている。

 

だが経団連のおじさまたちは鈍感力を決め込んでおり動けない。これを何とかするのは私たちの「若者力」か?

 

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