経済的損失は約3兆円~ 「6人に1人」の貧困の放置で起こること

「貧困家庭のお子さんを見ていると、勉強が『分からない』という経験が重なり、学校生活のなかでどんどん劣等感を募らせていくのが分かるんです」

先日、石川県のとある温泉街で、貧困世帯の学習支援を手掛ける女性(Aさん、50代)にインタビューした。彼女は、経済的に貧しい家庭の子どもたちの学習支援に加え、学童クラブの運営にも関わっている。さらに、学童に来ることができない貧困家庭の子どもたちが立ち寄れる「場所づくり」にも取り組んでいる。
彼女は言う。「小学校3年生が、ギリギリのターニングポイントなんです」。経済的に厳しい家庭では、親が昼も夜も働き詰めで、子の勉強を見てあげることが難しい。そのため子どもは「授業が分からない」状態が続き、小学校3~4年生になる頃には、勉強や学校そのものに対して「劣等感」や「反発」を覚えるようになってしまうそうだ。

過去最悪の数字となった「子どもの貧困」

今や6人に1人の子どもが貧困状態にある。「平成26年版 子ども・若者白書」によると、子どもの相対的貧困率は90年代半ば頃からじりじりと上昇。最新のデータ(2012年)には16.3%で、過去最悪となっている。この状態をそのままにしておくと、どうなるか。日本財団三菱UFJリサーチ&コンサルティングの推計によると、「子どもの貧困」を放置した場合、1学年あたりでも経済損失は約2.9兆円、政府の財政負担は1.1兆円増えるという。

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(写真 記者発表の様子。マスコミ各社からの質問が相次いだ)

子ども時代の経済格差は、教育格差を生み、将来の所得格差につながる

「子どもの貧困を放置した場合の経済的損失」といっても、ピンとこない人もいるだろう。どうやって算出するのか、筆者もはじめはよく分からなかったが、説明を聞いて徐々に理解できた。

まずは大前提から。子ども時代の経済格差は、教育格差を生み、将来の所得格差につながる。親の経済力と子の学力は相関し、学力は学歴に相関し、学歴と将来の所得はおおむね相関する。この前提のもと、図2にある「①現状シナリオ ②改善シナリオ」にもとづいて、両者の差分を算出。「現在15歳の子どもが64歳までに得る所得(=政府の収入)」と、「税・社会保障の費用の純負担額(=政府の支出)」を算出し、現状が改善されなかった場合に将来、政府が負担する税・社会保障純負担額を「経済的損失」とした。身も蓋もない言い方をすれば、「子どもの貧困」を放置した場合、教育・所得格差が開いた状態で大人になる人が増え、それだけ政府の社会保障負担も大きくなるということだ。

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(図 配布資料より。上が「推計に使った用語の定義」、下が「①現状シナリオと②改善シナリオ。①と②の差分が"経済的損失"。いずれも◯を追加)

 財政負担額、1学年あたり1.1兆円増加

推計では、貧困世帯の子どもの「進学率」や「高校中退率」などを改善しなかった場合、政府の財政負担額は、1学年(現在の15歳人口119.8万人)あたり1.1兆円増加することが分かった。わずか1学年で、このインパクトだ。平成27年度の児童手当の政府予算は「全体で」1.2兆円なので、1.1兆円の財政負担という数字がどれほど大きいか分かる。

子ども時代の経済状態と進学率、大人になってからの所得には、はっきりとした相関がある。たとえば最も差が開くケースとして、日本財団三菱UFJリサーチ&コンサルティングでは、「中卒・男性・無業者・生活保護受給者」と、「大卒・男性・正社員」を比較。この場合、所得においては生涯に平均約2億9000万円の差、税・社会保障の純負担(国側の負担)は約1億7570万円の差が開く。こうしたケースも含めて計算すると、個人所得の経済損失は1学年あたり約2.9兆円に達する。 

生涯獲得年収には「高校中退率」のインパクトが大きい

先ほどの図では、推計に使った3つの指標を解説している。いちばん上の「高校進学率」は、現状シナリオで「生活保護世帯・児童養護施設・ひとり親世帯」の子ども、いずれも9割近い。これが改善シナリオでは、ほぼ100%になると仮定されている。次に「高校中退率」だが、推計では先にあげた3つの世帯の子どもの現状(いずれも約4~5%)から、非貧困世帯並みの1.3%まで改善すると仮定した。日本財団ソーシャルイノベーション本部によると、推計のなかで、高校中退率が将来の所得に与える影響が予想以上に大きいことが判明したという。中卒では高卒と比べ、正社員になれる割合がガクッと落ちる。非正規雇用を転々とし、貧困に陥る確率も高まる。将来の貧困層を減らすためには、高校をきちんと出て、正社員など安定した職を得てもらうかが重要なのだ。

幼い時期の教育介入は、長期的な学習意欲の向上につながる

「大学等進学率」を見てみよう。現状シナリオでは、生活保護世帯の進学率(専門学校なども含む)は3割、児童養護施設では2割、ひとり親世帯では4割となっている。これが、改善シナリオではそれぞれ54%、44%、63%まで増えると仮定。推計では非貧困世帯の進学率に近づけたが、厳密には全く同じというわけではない。

会見では「大学等への進学率改善率には、どのような計算方法を使ったのか?」との質問が出た。同本部によれば、国内には「どうすれば貧困世帯の大学進学率がアップするのか」という調査研究はない。そのため、欧米で就学前の子どもに対して教育的介入を行った「アベセダリアンプロジェクト」を参考にした。同プロジェクトは、1970年代に生まれた子どもたちを対象に就学前教育を実施、その効果を長期的に検証したもの。実験では、未就学児に就学前教育をほどこした結果、学業成績だけでなく、ものごとを最後までやりぬく力など「非認知能力」も向上した。結果的に、子どもたちには努力し続ける力がつき、進学率も向上。日本財団三菱UFJリサーチ&コンサルティングでは、このアベセダリアンプロジェクトの結果を参考に、②改善シナリオの大学等進学率を算出した。現状からは、22ポイントの上昇だ。

もちろん、高等教育機関への進学が人生のゴールではない。が、統計的に見て学歴と生涯獲得年収(≒個人の納税額)が相関しているのは明らかなので(下記図参照)、国の社会保障負担額を算出するには参照しやすい数字なのだ。

 

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 (図 性別・学歴別・就業形態別の賃金カーブ)

貧困世帯の子どもたちが無力感を抱いてしまう前にできること

今回の推計で明らかになったのは、貧困状態の子どもに対して、政府が何も介入しなかった場合、将来的な経済的損失は「1学年あたり約2.9兆円」にもなるということだ。本来、子どもたちはどんな家庭環境に生まれ落ちようと、よく学びよく遊び、自分なりの仕事を見つけ、やりがいや社会での役割意識を感じるようになっていくべきである。今のままでは、貧困状態にある子どもは、何の支援も得られないまま、貧しさから抜け出すことができず、(こんな言い方は嫌だが)社会の“お荷物”になる確率が高まってしまう。経済的損失に焦点を当てた、ややセンセーショナルな推計だからこそ、「では貧困世帯の子どもたちに、何ができるのか?」という議論のたたき台になるはずだ。

冒頭で引用した、貧困世帯の子どもの学習支援を手掛けるAさんによれば、親の経済力が弱い子どもは、高学年になっても、小1で習う「足し算の繰り上がり」が理解できないケースもあるという。

彼女の言葉が繰り返される。

「小学校3年生が、ギリギリのターニングポイントなんです。」

Aさんはこう続けた。

「小学校に上がってすぐの頃は、親の経済力によって、そこまでの差はありません。でも、3~4年生になると、成績を周りと比べ始める。貧困家庭の子どもは、勉強や学校、親や社会に対して劣等感やあきらめ、反発心を抱くようになり、問題行動を起こすケースもあるんです。中には親をかばう子もいますが、『どうせ親や先生は何もしてくれない』と、暴力をふるう子もいます。本当は、どの子も『自分は自分だ』と思えればいいのですが……」

貧困世帯の子どもたちが無力感を抱いてしまう前に、私たちには何ができるだろう。幼い時期から地域の大人たちが「介入」し、セーフティネットになることができればいいが、コミュニティが機能していない地域では、それも難しい。

「お金」では改善できない「心の貧困」

Aさんの団体には、自治体から予算がつくこともある。が、国の予算はいわゆる「紐付き」が多く、きめ細やかなニーズに対応できないケースが多い。そのことも問題だが、彼女が最後に発した言葉は重かった。

「紐付き予算の問題に加えて、もっと大切なことがあります。親にお金をあげるだけではダメなんです。もちろんお金は大切ですが、それだけでは、子どもの『心の貧しさ』を救えないんです」

貧困世帯への「金銭的な支援」と「精神的な支援」は、別に考えるべきだ。どちらも必要で、その配分は個々の家庭のニーズに沿った、きめ細やかなものでなければならない。が、政府や自治体がそこまでできるだろうか。やはり、民間の力を活用すべきではないか。今回の推計は、あくまで政府の社会保障負担に限ったものだが、何もしなければ、失われるものはあまりに大きい。金銭的な支援と、精神的な支援、それぞれ自分には何ができるのか。政府に頼るだけでは限界があるだろう。が、寄付文化を根付かせたり、企業に協力を求めたりするなど、方策はないものか。私たちの社会は、すぐ隣にある貧困を、「他人ごと」ではなく「自分ごと」として捉えるべき時期に来ている。