「他人をひがむ」芸風はとっても、ウケがいい

ジャーナリスト、千葉敦子さんによる日本文化論『ちょっとおかしいぞ、日本人』(1985)の中に、面白い指摘があります。「男も女も、すぐ僻む(ひがむ)」という章で、日本人は何かにつけ、他人をひがむというんですね。

僻み根性というのは、日本人の最も得意とする“根性”ではないでしょうか。日本はこれだけ一生懸命やっているのに、欧米はちっとも理解してくれないと僻む。(中略)私の方が彼女よりよく働いているのに、彼女ほど美人じゃないから認められないんだわと僻む。(『ちょっとおかしいぞ、日本人』1988年の文庫版 p.55)

え~そうかなぁ?僻む人はどこにでもいるし、日本も欧米でも同じでは…と思って続きを読むと、驚いたことに「ひがむ」に相当する英語って存在しないらしいのです。千葉さんが参照している「大和英辞典」(74年版)では、“become jaundiced [prejudiced] ; be biased; regard with suspicion; take a jaundiced view” と、あるようですが、これらは「偏見を持つ・疑いのまなこで見る」という感じで、正確に「僻む」を言い表してはいない。

私も「ジーニアス和英辞典」を引いてみましたが、形容詞の“jaundiced”は “not expecting sb/sth to be good or useful, especially because of experiences that you have had in the past:”。対象を悪い色眼鏡で見る、といったニュアンスでしょうか。「僻む」というには、しっくり来ません。英語には「僻む」という語彙・概念がないのか。千葉敦子さんいわく、英語圏のメディアと比べ、日本のマスメディアには「ヒガミ言説」が溢れているといいます。

日本人の間では僻みは氾濫しているようにみえます。とくにマスメディアは、出演者や執筆者が僻んでみせることによって、一般大衆と同じ位置にいることを誇示する傾向が強い。(前掲書 p.56)

有吉の毒舌キャラのキッカケは「ひがみ根性」

毒舌タレントの有吉弘行さんは以前、ある番組で、今の芸風について次のように話していました。「猿岩石が解散して無一文になったとき、ストレスから不眠症になり、1日20時間テレビを見ながら芸能人たちに毒づいていた。それが今の芸風の土台になったと。「毒舌キャラはひがみ根性がキッカケ!」らしいです

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有吉さんは一般人とはかけ離れた収入を得ていると思われますが、「ひがみ根性」を元にした毒舌で、親近感を演出しているのかもしれません。そういえば、80年代に売れっ子エッセイストになった林真理子も「(ブスの)ひがみ」を面白おかしく書いたからこそ、多くのファンがつきました。彼女は言います。

ヒガミ、ネタミ、ソネミ、この3つを彼女たち(※引用者注:当時の若い女のエッセイスト)は絶対に描こうとしないけれど、それがそんなにカッコ悪いもんかよ、エ!(『ルンルンを買っておうちに帰ろう』文庫版 p.4)

林真理子はすさまじき「ヒガミ根性」で、「男にモノを買ってもらう女は、やはり……うらやましい」とか「女だって、金、地位、名誉がほしいのだ」といった刺激的な文章を書き、同世代の女性から共感を集めました。「他人を僻む心」は胸の奥に閉まっておくべきだ、というタテマエがあるので、著名人が「あいつが妬ましい」だの何だの言ってくれると、スカっとするわけです。いわば「ヒガミのアウトソーシングです。

常見陽平さんの「サラリーマンコンプレックス」

BLOGOSなどでよくお見かけする常見陽平さんも、「ヒガミ」が時たま滲み出るような文章が上手な方の1人かもしれません(良い意味です)。一流企業出身で、執筆やメディア露出など多方面で活躍されているのに、「サラリーマンコンプレックス ―会社を辞めても自由にはなれない」と言う常見氏。サラリーマン時代に偉くなれなかったこと、仕事ができなかったこと、同期のうち2人が会社を上場させたと知った時の、何とも言えない気持ちなど、読んでいて面白く、分かるなぁ…という感じ。自分の経歴に微妙に自信を持てない点や、活躍する同世代へのコンプレックスを適度に吐露する、ある種の「芸風」が確立されているような気がします(こちらが勝手に、自分の僻み根性を投影しているだけなのでしょうけれども)

かくいう私も、BLOGOSで月間ランキング2位に入るほど読まれた記事は「一流企業の受付嬢」への酷いコメントに、ちょっと共感した です。美人受付嬢への「僻み根性」で書いたとしか思えない内容……。

会社員時代、いわゆる「一流企業」を訪問することも多かったのですが、確かに受付嬢には美人が多いような気がしました。彼女たちを見ていると、おんぼろスーツに疲れ顔の自分が寂しくなり「同じ女でこうも違うのか…」と何とも言えない気持ちになったのを覚えています。「一流企業の受付嬢」への酷いコメントに、ちょっと共感した 」より引用)

受付嬢への「何とも言えない気持ち」とオブラートに包んでおりますが、要は「ヒガミ」です。みっともない。とはいえこのように、ネガティブな感情を包み隠さず書いた記事ほど、多くの人に関心を持って頂ける部分はあります。本音とタテマエの使い分けが当然とされている中で、あえて「ヒガミ」=本音らしい言葉を吐いてみせる。すると、それが多くの人からの共感と反発・批判という名の承認につながることがあって、嬉しくて、ますます「ヒガミ芸」(とでも名づけましょうか)がやめられなくなる。気づけば「ヒガミ芸」が十八番になりつつあるのです。

ヒガミの背景にある「自己正当化」

ヒガミ根性の背景には、「ひがむことを通して自分を正当化したい」という思いがあるようです。美人で女らしい受付嬢を僻んでみせ、そんな「私」の自意識を正当化する。認めてもらおうとする。実際、ヒガミ根性を正直に書けば書くほど強い承認を得られる面もあり、あ~何か良くないなぁこれ、やりすぎると深みにハマるぞ……と思います。ヒガミによる自己正当化は、ほどほどにしなくては、と感じつつ、「メタなヒガミなら普遍性があるし良いじゃないか!」と、これまた自己正当化に走る。そんな無限ループから抜け出せずにおります。

【北条かやプロフィール】

86年、石川県金沢市生まれ。「BLOGOS」はじめ複数のメディアに、社会系・経済系の記事を寄稿する。同志社大学社会学部を出たのち、京都大学大学院文学研究科修士課程修了。会社員を経て、14年2月、星海社新書より『キャバ嬢の社会学』刊行。

Twitter  @kaya8823

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