「女性の貧困」をエンターテイメントにするな
「NHKスペシャル 調査報告 女性たちの貧困~"新たな連鎖"の衝撃~」が話題になりましたね。今年1月に放送されたクローズアップ現代「あしたが見えない」にも、大きな反響があったようです。このように最近、若い女性が極貧状態で暮らしている、そういう女性たちが暮らすシェアハウスの環境が劣悪だ、シングルマザーが風俗でなんとか生計を立てている、といったセンセーショナルなルポがまた増えてきたように思います。これを、どう見るか。
女性の貧困が問題とされ始めたのは、2011年
「女性の貧困」が一種のブームになったのは、11年です。国立社会保障・人口問題研究所の阿部 彩氏によるレポートで、「一人暮らしの女性の3人に1人が貧困」という数字が出ました。シングルマザーの3人に2人、高齢女性の2人に1人が貧困層。夫の収入に頼れない女性や、夫に先立たれた女性が貧困に陥りやすいという、女性問題論や社会階層論を少しかじった人間であれば「当たり前の事実」が、ようやく社会的に認知されるようになりました。女性の貧困に関心をもつ人が増えるのは、たぶん悪いことではないのでしょう。
安倍政権の「女性活用」で、忘れ去られた「女性の貧困」
ところが12~13年にかけては、アベノミクスによる景気回復と「女性活用」の大合唱。「仕事でもっと女性は輝く!」ムードが高まり、女性の貧困への関心は少しずつ薄れていったように思います。マスメディアは、すでに結婚できたカップルの「両立支援」や、正社員を中心とした女性の「社会進出バンザイ」のお祭り状態。もちろん地道に貧困女性の支援を続ける団体はありましたが、テレビや新聞が、女性の貧困を真正面から取り上げる機会は減りました。ところが14年になり、またもや「女性の貧困ブーム」が再来している…ように見える(NHKが音頭を取り始めた段階なので、これからどうなるか分かりませんが)。そもそも貧困とは「常にそこにある、解決されるべき問題」なのに、時期によって議論がさかんになったり、無視されたり、というのはヘンな話です。
「貧乏な女性」は昔からたくさんいた
そもそも「貧しい女性たち(男性もですが)」は、昔から沢山いました。一生独身では貧しいままだから多くの女性は嫁に行ったし、DVなんて概念もありませんから、離婚もできずに耐えていた。ウーマンリブの旗手、田中美津さんの『いのちの女たちへ』(1972)には、貧しいために養子に出され、性暴力や過酷な労働環境が当たり前だった大正~昭和の女性たちが、生々しく描かれています。
高度成長を経て社会が豊かになっても、若い女性は貧困に陥りやすいものでした。作家の林真理子氏(60)は、20代前半の自分が「極貧状態だった」と書いています(『ルンルン症候群』角川文庫)。72年の石油ショックで、当時の女子学生は就職難に直面。彼女も、田舎の両親から仕送りを断ち切られ、日雇いバイトで糊口をしのいだといいます。食費は1日40円。ご飯が買えず、空腹を忘れるため1日中寝ていたこともあると……。
これは、極端な例ではないのだと思います。70年代のおわりも今も、貧しい一人暮らしの女性は沢山いたし、今もいる。ただし、昔は経済が(今よりは)成長していたし、結婚しようと思えばそれなりの相手が見つかったので、若い女性にとっての「貧困」は一時的な問題でした。
団塊世代の女性は95%以上が結婚しています。専業主婦にならずとも、女性の正社員比率は今より高かったし、男女ともに安定雇用のパイはどんどん増えていたのです。そんな中、「貧困」は遠い存在、ノスタルジックなものとされていきました。それこそ、林真理子が売れっ子になってから「若い頃はビンボーだったのよ」とネタにするほどの、思い出話にすぎない存在になっていったわけです。現実には、いつもそこに「貧困」はあったにもかかわらず。
専業主婦は、年収だけ見れば「貧困層」
最近、上野千鶴子氏が『女たちのサバイバル作戦』で指摘していましたが、専業主婦は、年収からすれば完全に「貧困層」です。パートなど、低賃金で不安定な労働を担っていきたのは、主に女性でした。ただしこうした女性たちも、夫の稼ぎ込みの「世帯年収」でみれば裕福だとされていた。“一億総中流”の幻想があったので、みんな「女性がそもそも貧困に陥りやすい存在であること」「周縁的な労働力として扱われてきたこと」を問題にしなかったのです。
フリーターからワーキングプア、そして「女性の貧困」へ
「貧困」は「格差」とは違って、社会に「あってはならない存在」です。経済格差なら「まぁ競争に負けたのだから仕方ない」という意見もありえますが、貧困はそうはいかない*1。社会が積極的に、その状態を定義して「発見」し、何らかの介入によってなくさなければならない存在です。
そういう意味では、「失われた20年」を経て、現代の貧困は次のような順番で発見されてきたといえるでしょう。まず、90年代には、それまで「好き勝手に遊んでいる」と思われていたフリーターやパラサイトシングルが、08年~09年の「派遣村」で「ワーキングプア」として社会問題化。やっと、フリーターなどの問題が貧困と結びつけて認識されるようになりました。今は、社会全体で低賃金のサービス労働化が進み、そうした働き口しか見つからない女性たちの貧困がようやく「発見」された段階です。
もちろん、劣悪な環境のサービス労働で働くのは女性だけではありません。若い男性を中心に、低賃金で使い捨てにされ、疲弊していく人は沢山いる。この問題をマスメディアが報道したからこそ、元々そういう環境で働いていた「女性の貧困」にもスポットライトが当たるようになったのです。
「女性の貧困」はエンターテイメントではない
だから、今になって「女性の貧困は由々しき事態である」と騒ぐ人をみると、違和感があるのです(自分の周りには年齢を問わず、割といます)。知らなかった社会的事実が目の前にあらわれ、びっくりしているのかもしれません。そういう人たちは、特にアクションを起こすこともなく、「大変だよね~」とか、「私は安定した夫を捕まえられてよかった」とか「ちゃんと貯金しなきゃ」とか、そのくらいは思うでしょう。そんなふうに、一種のエンターテイメントとして「女性の貧困」が消費されつつある空気すら感じます。
ホームレスの物語を消費した、90年代のマスメディア
テレビで見る「貧困状態にある若い女性の絵」には、大きなインパクトがあります。視聴率も期待できるでしょう。NHKは影響力も大きく、政策的な動きにもつながるかもしれません。ただ、テレビというのは「諸刃の剣」で、貧困問題がエンタメとして消費されて終わり……という危険もあることは、強調してもし足りないと思います。
90年代後半の「ホームレス問題」を思い出します。当時、多くのテレビ局は「エリートサラリーマンがリストラで、40代ホームレスに!」など、センセーショナルな内容で視聴率をとりました。が、現実のホームレスの大多数は、ブルーカラーの職を転々としてきた、学歴にめぐまれない独身の高齢男性たち。地道に支援をしている人たちの実感と、テレビにうつし出される「元エリートホームレスの転落物語」には、大きな乖離がありました。視聴者はそれらを、自分とは切り離したエンタメとして楽しんだのです。当時のテレビ局には、功罪あるでしょう。
あれから20年。また当時と似たようなドキュメンタリータッチの番組が、沢山作られていくかもしれません。「若い女性がDV離婚、風俗と子育てのリアル」とか、「女性の貧困とメンタルヘルス問題、自傷行為の生々しさ」とか。そんな番組を、ソファにゆったり腰掛けつつ視聴し、「貧困って大変だな~」「でも、自己責任なんじゃない?」「頑張れば何とかなるって!」と、消費する視聴者たち。もちろん、マスメディアの報道に刺激され、具体的な行動を起こす人が増える可能性もあるでしょう。が、「貧困」はエンターテイメントとして消費して終わっていい問題では、決してないのです。
【北条かやプロフィール】
86年、石川県金沢市生まれ。「BLOGOS」はじめ複数のメディアに、社会系・経済系の記事を寄稿する。同志社大学社会学部を出たのち、京都大学大学院文学研究科修士課程修了。会社員を経て、14年2月、星海社新書より『キャバ嬢の社会学』刊行。
※Facebookアカウント持っていなくても見ることができます。
【楽天ブックスでも送料無料】キャバ嬢の社会学 [ 北条かや ]
*1:参照:『現代の貧困』岩田正美著.