非モテたちよ!

今回は、「モテる者」と「モテない者」の格差について考えてみる。

 

自称「モテる」男友達がいるが、彼によれば「軽はずみに“モテたい”なんて言うなよ、本当にモテない奴に失礼だ」。「本当にモテない奴ってのは、異性を意識し始めた瞬間から、誰も異性が近くに寄ってこないような奴のことを言うんだ、彼らの苦悩はすごいはず」。

 

ここでの「モテ」の定義は、「母親以外の異性が常に近くにいるかどうか」である。彼の周りでは、一部の男性はモテまくり、そうでない男性は思春期いらい全く異性との接点がないという状況が生まれているという。

 

もちろん女性にも、これはある程度あてはまる気はする。常に異性が近くにいる者と、そうでない者。両者の話はときに、全くと言っていいほど通じない。いや、別にそこまでみんな仲良くしなくてもいいとは思うけど。

 

このようなモテる者とモテない者の「格差」は、 1980年代にぐんと大きくなったといわれている。この時期を境に、ただの「恋愛」にコストがかかるようになったからだ。

 

たとえば92年に出された、森高千里「私がオバさんになっても」の歌詞。

 

「来年も又サイパンへ泳ぎに行きたいわ」(=もちろん連れてってくれるわよね?)「ドライブしてくれる?」「ディスコに連れてくの?」「オープンカーの屋根外してかっこよく走ってよ」

 

つまりは「私のためにこれだけ消費してくれるわよね?(それって当然よね?だって私は「若い女」だもの)」。

 

この要求をリアルに叶えるには、毎シーズンのように海外旅行をし、都心をオープンカーに乗ってディスコに行かなくてはなりません。軽く年収2000万円くらいないと厳しいはず。さらにオープンカーを走らせながら、楽しいおしゃべりによって女性を満足させなくてはならない。大変です。

 

まあみんながこんなバブリーな恐ろしい素晴らしい恋愛をしていたわけではないと思うけど(バブル期東京とそれ以外の地方との格差もまた広がったのだ)、この歌は、当時の恋愛の空気感をよく表しているといえるだろう。

 

それまでタダ同然だった恋愛にとつぜん、あるコストがかかるようになったのはなぜか。その原因はジェンダー論、若者論の文脈からは次のように説明される(堀井憲一郎『若者殺しの時代』など参照)。

 

「80年代以降、女性が消費の主役になったから」。若い女性が高学歴化し、経済力をつけ、遊び、また遊ばれるようになったのだ。おまけにバブルの空気も重なり、結果的に女性を消費で満足させられない男性は、恋愛市場の負け組になってしまった。

 

お金に恋愛コミュ力がついてきた時代は、確実に従来のコミュニケーションを変えた。当時はそれほど、若い女の価値がインフレを起こしていたのだろう。超うらやましい。

 

80年代の「女の時代」は結局「“女のための消費”の時代」だったのである。

 

だが、「若い女がする消費」と、「若い女を消費」することに高い価値が置かれている時代は結局、全ての女を不幸にさせると思う。

 

この続きは「若い女の値段」(1)(2)で書くので、また読んで頂けると嬉しいです。

 

 

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