愛あるセックスと「自由」(2)

こんにちは。いつのまにやら10月ですね。この季節、バーバリーのチェックのミニを履きたくなりますね持ってないけど。

先日の記事では北原みのり氏の著作を参照しつつ、かつてのアンアンが高らかに唱えたような「セックスにおける自由」が今も可能かどうか考えました。今回はセックスうんぬんから派生する「承認問題」について掘り下げてみます。

 

90年代後半以降、「普通の女の子」のセックスが簡単に売られる社会となった結果、逆に「愛あるセックス」が規範化した。というよりケータイに象徴される「誰にも見られずに誰かとつながる」ツールが一般化した結果、人間関係が流動化した。

つまり恋愛もセックスも簡単にできるようになった。

 

実際、90年代に10代の性交経験率はどんどん伸びている*1

 

セックスしたければ出会い系に登録すればいいし、お金が欲しければソフトに売春したっていい。

 

セックスするのに「結婚を前提とした付き合い」や「○年も愛し合っている」といった必要条件がなくなり、

したかったらいつでもできるようになった*2

 

だがセックスは簡単にできるが「ほんとうの愛」は簡単に手に入らないと気づく子たちが出てきた。

そういう子たちから、どんどんセックスに対する期待値が下がっていった*3。反対に愛されることへの期待値というかプレッシャーだけが肥大化していく*4

 

結果的に「愛されなかった」女の子たちは自分を責めるようになった

 

それはセックスを含めた人間関係が、タテマエとしては全て "自分で" 選べるようになったからだ。

選べるようにはなったけど、選んだ結果に対して誰も「それでいいんだよ」とは言ってくれない

あなたが選んだんだからあなたの責任というわけです。自己責任という言葉も流行った。

 

こんなに愛されたいのに愛されないのは私のせいだ。でも愛されたい。愛されているなら殴られてもいい。

 

2006年に創刊された小悪魔agehaでは、読者モデルの「愛され自慢」よりも、DV彼氏との閉鎖的な日常や人間不信などの「病み告白」を特集したほうが部数が伸びるという。

 

たとえば08年の「病んだっていいじゃん」特集では、age嬢たちのキラキラした写真とともにこんなコピーが踊る。

 

「週の半分以上蹴られてた。それが普通だったから」「居場所がなかった」「愛して欲しかった」

 

傷つけられることで繋がる関係は辛いが、その代わり強烈な「承認」が手に入るageha編集部はそうやって手に入れる関係を、「殴って殴って抱きしめる」と表現したりします。自分が傷つけられていることが、愛されている証になるんだよね。

 

誰もが愛されたいともがく社会のなかで、居場所をなくした女の子たちが小悪魔agehaに救いを求めた。それでも承認を得られない女の子たちは「愛されないのは私が悪い」と自分を傷つけ続けた

 

無数のリストカットの痕、レイプやDV被害の告白……

 

24歳で自殺した上原美優の過去は自傷に満ちている。そんな風に死んでいった1人の女の子の生と性を、メディア悲劇の物語として消費する。また女の子の現実が分かりやすく薄められた。

 

そういえばここ1年ほど、小悪魔agehaの病み特集をあまり見かけない。現在進行形で病みの内容を告白する特集が減り「病んでいた過去を語る」型の特集が増えている。

 

「病んだっていいじゃん」から、色々あったけど「この恋があったから今の私がいる」へ。変わりつつある小悪魔agehaが、変わらない女の子たちのリアルをとりこぼさないかちょっと気になるkayaでした。