「障害者」と「健常者」を、分断から交じり合いへと導くアートの力

みんなと同じだけど、ちょっと違う存在

小学生の頃、クラスに「たっくん」という、知的障害をもった男の子がいた。たっくんは一見、他の子たちと変わらない。体育のときは、みんなと同じように授業を受ける。でも、算数や国語の時間はいない。いつもニコニコ楽しそうだけど、時々、幼稚園児のような甲高い声を上げる。でも、クラスのみんなからは「たっくん、たっくん」と人気者で、誰も彼を“特別視”はしていない。

転校してきた私は、前の小学校ではそういう子と出会う機会がなかったので、率直に「あの子は何者だ??」と驚いた。先生に「たっくんって何者?」と尋ねたところ、担任の教師は、その素朴すぎる疑問に「わははは!」と大笑いした。「何者?って、あなた、面白い表現ね~!たっくんは、みんなと同じだけど、みんなと一緒にできないこともある。そういうときだけ、特別支援学級で、別のお勉強をしているのよ」。たっくんとの出会いが、私にとっては「障害者」との初めての出会いだった。

 五体不満足』と「バリアフリーブーム」

その数年後、乙武洋匡さんの『五体不満足』が大ベストセラーになった。「障害を個性のひとつ」と捉える作者の、前向きな生き方は衝撃を持って受け止められ、社会全体で「バリアフリー」や「心のバリアフリー」について考えるのがブームになった。

f:id:kaya8823:20141116030307j:plain(画像引用:Amazonより)

ただ、乙武さんがヒーローになっても、現実の「障害をもった人たち」は、相変わらず、都会のど真ん中というよりは、郊外など、ちょっと人里離れた所(というと語弊があるが、実際、施設があるのは、地方の自然に囲まれた地域が多い)で、割と地味で、地道な生活を送っている。そんな、「ごく普通の障害者」たちによるアートが、日本でも注目されるようになって、約20年が経つ。

「障害者アート」という人もいるが、正確にはこう呼ぶそうだ。「アール・ブリュット」「アウトサイダー・アート」「生の芸術」*1。施設関係者たちの活動などを通して、地道に広がってきた彼らのアート作品は、この社会で「普通に生きる」とは何か、「普通ではない者」とカテゴライズされて生きるとはどういうことか、そもそもアートとは何か等々、様々な問いを投げかけ、私たちの「当たり前」を揺さぶる*2

11月8日(土)、日本では初めての試みとなるアール・ブリュットの合同展覧会が始まった。展覧会のコンセプトは、「TURN/陸から海へ~ひとがはじめからもっている力~」。東京藝術大学教授の日比野克彦氏が監修し、全国4つの美術館を巡回する。オープニングイベントを見てきたのだが、帰宅した当日は知恵熱が出るほど考えこんでしまった。

f:id:kaya8823:20141116031133p:plain(合同企画展のポスター)

「ひとがはじめからもっている力」って何だ?

同企画展に先立ち、日比野克彦氏は、入所者の方々と「時間を共有するため」、全国4つの障害者支援施設で「ショートステイ」をしている。日比野氏は、施設への滞在を通して、障害を持った人たちの創作意欲や独特のキャラクターを目の当たりにした。「健常者」である彼が、入所者とともに寝泊まりし、同じように作業をする。することが何もない時は、日がな一日ぼんやりすごす。滞在中、日比野氏は、「アート(美術)のアートたるゆえんは何か」、「表現とは何か」「そもそも『美』とは何か」など、様々に思いを巡らせたそうだ。考えぬいて見えたものが、今回の展覧会のコンセプトとなった。いわく、「ひとがはじめからもっている力」

「良い意味で、分かりやすいコンセプトだなぁ」と、はじめは思った。「障害を持った人たちのアート作品を通して感じられる、普遍的な『生のパワー』みたいなものかな……?」だが、現実はもっと複雑だった。その「複雑さ」をレポートするのが、このブログの目的です。ちょっと長くなりますが、時間の許す限り、お付き合い下さい。

障害者、マルセル・デュシャン岡本太郎の作品が並列に並ぶ

合同企画展のスタート地点は、京都府亀岡市の障害者支援施設「みずのきえん」が運営する「みずのき美術館」。京都駅から電車で20分あまりの、亀岡駅で下車する。町中にある「みずのき美術館」まで、てくてくと歩く。

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商店街の古い家屋がたちならぶ中に、ぬっと、真っ白な、でも不思議と町並みに溶け込んだ建物が姿を現す。

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(みずのき美術館の入り口。大正期に建てられた理髪店をリノベーションした建物)

中に入ると、障害を持った人たちの作品から、マルセル・デュシャンの有名なアート作品「泉」、岡本太郎が全国行脚して、地方に生きる人々の生活を撮影、文章とともに著した「藝術風土記」、最近の現代アート作家たちの作品、演出家の野田秀樹さんの作品までが、“対等に”並んでいる。

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当日は、日比野克彦氏と、キュレーターの奥山理子氏による作品の解説があるということで、かなりの人出だ。100人くらいは集まっている。取材陣も多数。

f:id:kaya8823:20141108151245j:plain(中央が日比野克彦氏)

作品解説が始まる。1作品目は、島袋道浩さんの「輪ゴムをくぐりぬける」。無造作に置かれた輪ゴムが、人々の行為を誘発する。日比野氏が、文字通り「輪ゴムをくぐり抜け」るパフォーマンスをし、会場はどっと湧く。

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(これも、日常にありふれたモノからコミュニケーションを生み出すアートだ。)

f:id:kaya8823:20141108150954j:plain(輪ゴムをくぐり抜ける日比野克彦氏)

そもそも、絵を描くことの意味って何?

次は、日比野克彦氏が、全国4つの障害者支援施設にショートステイした際に仕上げた作品。日比野氏は、滞在中「絵を描くことを自分に課さなかった」という。それでも、入所者たちとの何気ない時間から、「1人1人のキャラクターを見ているうちに、積もってくるものがあり」、隣接のアトリエへで、彼らのイメージをもとに作品を仕上げたのだという。

f:id:kaya8823:20141108133114j:plain(自身の作品を解説する日比野氏)

入所者の方々と一緒に創作する中で、日比野氏は「絵を描くって、なんだろう」という、根源的な問いにぶつかった。私たちが絵を描くときは、だいたい、描いた先の結果を見越して表現している。それは、他人からの「すごいですね」という評価かもしれないし、「思い通りのイメージを表現できた」という自己満足かもしれない。が、施設の人たちは、そういう「未来」や「結果」を思い描くことなしに、ただひたすら描くのだという。

障害を持った人たちがアートで表現する行為は、「意味」や「未来」とは切り離されているのかもしれない。私たちが絵を描こうとする場合は、事前にイメージを組み立ててから、カンバスに色を塗り始める。が、日比野氏が出会った「ソウちゃん」という方は、真っ白な紙の中から、何かあるものを「掘り起こす」ために筆を動かしているような印象を受けたという。彼は、頭の中のイメージを紙に投影するのではなく、紙の中からイメージを掘り起こしている。いや、彼が掘り起こそうとしたのは「イメージ」ですらないかもしれない(「イメージを掘り起こす」という表現自体、私たちの先入観である)。とすると、彼が筆を動かす「行為」とは一体何なのか?

 「ダルマの目入れ祭り」という不思議な光景

頭がこんがらがってきそうになったところで、田中偉一郎さんというアーティストによる「目落ちダルマ」の「目入れ祭り」が始まった。会場の天井付近には、巨大なダルマが(なぜか)鎮座している。

f:id:kaya8823:20141108155455j:plain(何でこんな場所にダルマが……)

今から、作者の田中さんが、この巨大なダルマに「目」を入れるという。なぜか目隠しをし、「メーーーーッ!」と叫ぶ田中さん(ダジャレ?)。

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一体、どうやって天井のダルマに目を入れるのか。参加者だけでなく、町の人たちも、「???」といった顔で、立ち止まったり、ちょっと気まずそうに前を通り過ぎたりする。幾度かの「メーーーー!」という絶叫を経て、いよいよ「目入れ」が始まった。

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結局、ダルマの目は、2階にいるダルマ本体ではなく、美術館の外壁に描かれた。一同、拍手喝采。作者の田中氏いわく、「巨大なダルマがなぜか天井に置かれている、目入れをする作者自身が、なぜかタオルで目を隠している、ダルマの目入れの場所がズレている……というように、『すべてがミステイク』な作品です」。

 通りすがりの人も含めた皆が、田中さんの「ミステイク」を共有するという、ちょっと不思議な光景だった。田中さん、素足で寒そう。

アウトサイダー」的なパフォーマンスが、街に出ることの意義

福祉や美術にあまり関心のない人たちも、「あれは何だ?」と、興味をそそられ、思わず見てしまうもの。「アウトサイダー・アート」や「アール・ブリュット」の作品たちが、美術品という枠組みを超え、“パフォーマンス”として街に出ることには、大きな意味があるように思う。「普通の人々」が、アートをきっかけに、アウトサイダーと呼ばれる人たちの周りに集まってくる。そうすることで、「障害者」への意味付けも変わってくる気がした。

もちろん、「そんなのは単なる希望的観測では」という意見もあると思う。現状では、「障害者」「健常者」といったカテゴリーを意識せざるを得ない場所が、まだまだ沢山あるからだ。いくらバリアフリー化が進んでも、見えない心の壁や、家族を含めた当事者たちの苦悩は残る。それでも、「彼らと我々」が、完全に分断されているよりは、どこかで混ざり合い、こうして出会える社会の方が、健全ではないかと思う。この展覧会のように、その融合は「アート」の分野で先に達成されているが、この「社会」にもまた、徐々にそういう原理が広がればいいと思う。

 「美術」と「福祉」をつなげようとする試みのジレンマ

課題はある。当日は、展覧会を共同開催する美術館のキュレーター4人が、トークセッションを行った。「アートと福祉の交差点 交通渋滞発生中!」と題したラウンドトークでは、「美術」と「福祉」をつなげようとする試みのジレンマが伝わってきた。

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(4名のキュレーターによるラウンドトークの様子)

広島、鞆の浦ミュージアムの櫛野さん(写真右から2人目)は、「障害をもった人たちの作品が“1人歩き”するのではないか、との懸念もあった」という。

 「障害者の中には、当然ながら、アート作品をまったく作らない人もいる。彼らは普通に、施設で生活している。そういう人たちにも光が当たるようにしたい」(櫛野さん)

その意味では、「作品を作らない障害者たち」と一緒に過ごした日比野克彦氏のショートステイ体験は、示唆的でもある。

アートといえば、すぐ「◯◯展で入賞した」というように、権威づけを欲する風潮がある。もちろん、障害者たちや「アウトサイダー」たちの作品が賞を取ることに「意義がない」とはいえない。が、それだけでは、彼らが表現することの「意味」は見えてこない。

アートは科学のように、「進化」を前提としない

日比野克彦氏は、「美術」と「科学」の違いを次のように語る。 

「医療や科学というのは、新しい知見を『下から順に積み重ねていく営み』なんですね。学問分野全体として、『進化』が前提になっている。一方、美術は、進化を目指すことが目的ではありません。1人1人の作品はそこでいったん完結しており、受け継ぐことができない。美術は、先行する知識を受け付けないのです。つまり美術は、下から上に『進化』をしていくのではなく、1人1人の表現が横に並んで、どんどん広がっていくイメージなんです。そのイメージを、素直に体現しているのが、障害者たちのアール・ブリュットなのかもしれない」  

 現代社会に生きる私たちが、1万5000年前に描かれたラスコーの壁画を見ても、『ああ、上手だなぁ』と思いますよね。また、『あなたにとって好きな赤色は、どんな赤色ですか』と尋ねて、カーネーションの赤が良いと言う人もいれば、リンゴの赤が好きだと言う人もいる。どちらの『赤』も正解なんです。アートというのは、1人1人に寄り添う力がある。この、アートの原理は、社会問題の解決にも活かせると考えています

 あ、そうかと思った。ある種の美術作品を見て私たちが感動するのは、それが近代的な未来へと向かう「直線的な時間」を前提としていないからだ。それぞれの作品には「固有の時間」がある。その固有性は、「他者性」でもある。私たちは、アートを通して「他者」と出会うのだ。

「健常者も障害者も同じ人間」という、心地よいスローガン

エッセイストの中村うさぎさんは、『愚者の道』(2005、角川書店)という作品の中で、下半身麻痺の男性と出会った経験を綴っている。うさぎさんは、車椅子生活の苦悩を含めた、彼の様々な内面を、「完璧に『分かる』とは言えない」と、率直に告白する。どんなに頑張っても、身体障害者である彼のすべてを「私」が理解・共有することはできない。が、そういう彼と「私」の差異こそが『他者性』なのではないか?うさぎさんは、その『他者性』を無視して、「健常者も障害者も同じ人間だ」と、聞こえの良いスローガンで思考停止してしまうことの危険性を指摘する。

アール・ブリュットに関しても、同じことが言えるのではないか。日比野氏の語る「アートの原理」に照らして言えば、作品の「美」は1つ1つ完結しており、それぞれが「力」を持っている。しかし、その作品を見て、単に「健常者も障害者も、アートの土俵の上では平等だよね」と感動するだけ……というのは、違う気がする。 

それぞれの「力」を持つ作品たちが宿す「他者性」から、目を背けることはできないのだ。目の前に、個としての表現が、ぬっと顔を現す。障害者をはじめとする「アウトサイダー」たちの作品は、見る者に「他者性」をつきつける。つきつけられて立ち止まり、足がすくんで動かなくなって、そこにとどまるか。「平等」という心地良い言葉のもと、考えることを止めるのか。それとも、その先へ進むのか。美術と福祉をつなげるアール・ブリュットの試みは、見る者を際限ない思考の循環へといざなう。

【北条かやプロフィール】

86年、石川県金沢市生まれ。「BLOGOS」はじめ複数のメディアに、社会系・経済系の記事を寄稿する。同志社大学社会学部を出たのち、京都大学大学院文学研究科修士課程修了。会社員を経て、14年2月、星海社新書より『キャバ嬢の社会学』刊行。

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*1:厳密には「障害者」だけでなく、犯罪を犯した人や、市井の人々による作品も含まれる。

*2:日本のアール・ブリュットは近年、海外でも評価されている。2010年から11年にかけては、パリで「アール・ブリュット ジャポネ展」が開催された。