女を降りる勇気

お久しぶりです。4月以降、ぼんやりとモノを考える時間がめっきり少なくなってしまいましたが、元気でやっています。

 

どうも私は「女であることの違和感」にこだわってしまうタイプのようで、仕事中もときどき、考え込んでいます。(働けよ

 

たとえば「働くとき、女らしさを売りにするのはズルいし、売りたくない!」って思っていたけれど、実際は「若い女」であるだけで、すでに自分は「売られている」ということが分かったり。

 

とても嫌な言い方をすると、売りたくないけど売らされている感じが、すごくある。

 

「誰もお前の“女”なんて買わねぇよ」とかそういう、個別具体的な問題ではなくて、この社会では、女であること=常にすでに性的商品であることを期待されているんだな、と実感することが、ときどきあります。

 

飲み会で、私より2つだけ年上の女性が「おばさん」呼ばわりされているのを見たとき。男性と同じようにスーツを着ているのに、ストッキングを履いた足が妙に生々しく感じられるとき。痴漢にあったとき。「ナチュラルメイク」を頑張ってしまうとき。

 

私から「若い女」であることを取り除いたら、いったい何が残るんだろう、と考え込んでしまいます(同じように、「自分から『若い男』であることを除いたら、何が残るのかな」って考える男性はいるんだろうか。いるかもしれない)。



仕事を始めて日が浅く、まだ何も誇れるものがない自分には、いつも「女」がついて回ります。だから、早く経験値を上げて年も取って、「人間」になりたい。……早く人間になりたぁあい!



ただ、いたずらに年齢を重ねても、女という属性にまつわる期待(例:美しくいなければ!)から自由にならない限り、私は「女」であり続けるんだろうなぁ、とも思う。最近だと、男性にも「見た目依存」の影響は及んでいるけれど(例:いわゆる、男性が「薄くなった髪の毛をどうとらえるか」問題、とか)。

 

おそらく、自分自身がいちばん、内面化された「女」を差別している。女でありながら、女という存在を見下している。

 

こんなことを考えるくらいならいっそ、「女」を降りてしまいたいのだが、そこまでの勇気はない。

 

それは私が、周囲の「女らしい女って素敵だよね」という期待に応えたいからです。この社会で女であることを嫌悪しながら、女であることで得られるアドバンテージを、手放せない自分もいる。

 

ただ自分が、そのアドバンテージを「手放したくない」のか、「手放すことを許されていない」のかは、判断がつきません。たぶん、どちらも正しいと思う。



そんなことを考えながら、しがないOLをやっております。