ミスコンはヌードでやればいいのにね(パート2)~差別と差異~

こんにちわー。

 

前回のブログには沢山の反響をいただきました。「ライトフェミはすぐ男に媚びる」とか「人種差別にも同じことを言うのか」とか、「あの子は小悪魔agehaを読んでいるアレな人だから」 、「差別と差異を一緒にするな」などなど

 

文章の解釈は読んで下さった方の自由なんですが、その反応から、どうにも言いたいことが伝わってないなーって感じでちょっと悔しいので、炎上覚悟で前回の補足をしたいと思います。ではではいきますよー。



差異のない世界はありません。AさんとBさんがいた場合、AさんとBさんは違う人なので、2人の間には差異があるといえます。AさんとBさんが仲良くしているうちは「私たちは同じ仲間だよね」と言い合っている。だけどもし彼らが喧嘩をした場合、AさんはいきなりBさんを「あなたは私とは違う、下等な存在だ」と主張し始めるかもしれない。こんなふうに私たちが固有の存在である以上、そこには無数の差異が存在していますよね。これが差別を生みます。もちろん意図的に、その差異をないものとして団結することもできる。だからこそ差別を撤廃させようとする運動が成立するわけです



ミスコン女性差別であるとすれば、「女性に固有の性的評価を押し付けているから」、つまり女だけを一方的に美で評価しているからだよね。女に「性差による効果=女らしさ」を押し付けるのがミスコン。だからミスコンはやめるべきだという主張は分かりやすい。

 

 

ただ、ミスコン一般をこの方法で批判することは難しいと思うのです。なぜならこの批判は、女に対して美(でも「女らしさ」でもいいけど、とにかく女という性に固有の効果、つまりは「性差による何らかの効果」)を押し付けるイベントを全てなくそうとすることに、つながってしまうから。

 

 

屁理屈かもしれないけど、かやがよくあるミスコン批判(=女性を差別するからダメ)に違和感をおぼえるのは、「性差による効果」が全く意味をなさない社会を想像できないからです

 

性差による効果」が全く意味をなさない社会って究極的には、性差が存在しない社会なんだよね。もちろん「ミスコン批判者が性差のない社会を目指そうとしている」と言っているわけではありません。誰もそんなことまで考えてないと思う…

 

でも、そこまで考えていないというのが最大の問題ではないでしょうか

 

性差による効果をどこまで認めるのか」を深く考えていないからこそ、「ミスコンが駄目ならシューカツで美人が得なのは差別だからシューカツもなくせばいいのか」とか、「オスコンをすれば男女平等じゃないの?」とか、果ては「女性差別ばかり主張して男性差別は放っておくのか!」などなど、「ミスコン批判に違和感を覚える人たち」から、言い掛かりにも似た突っ込みをされてしまうのではないでしょうか。



要するに、ミスコン批判者たちの最終的な「平等」イメージが明確になっていないところが、ミスコン批判者たちが「ミスコン批判に違和感を覚える人たち」から突っ込まれる要因だと思うのです*1



これは別にフェミニズムのせいではなくて、フェミニズムの依拠する「近代」の平等概念に原因があります。近代社会が平等という建前のもと、差別を生み出す「差異」を前提としたシステムをつくってきたからです(これは前の記事で詳しく書きました「ミスコンはヌードでやればいいのね」*2

 

 

とはいえ、かやは「人間同士には何らかの差異がある以上、完璧な平等など不可能なのだ。だから差別は仕方ない!」なんて主張するつもりはありません。完っ璧な平等はそれこそ「差異」をなくせば、もしくは見い出さないようにすれば理念的には可能ですが、そんなの現実的じゃないもの。

 

 

平等というのは、決して到達することのできない未達の地みたいなものだと思う。ほぼ間違いなく完璧な状態としての平等には到達しないけれど、いつかたどり着きたいと目指している運動まで否定する必要はないよね。

 

 

というより、私たち社会のメンバーに「平等という建前」が共有されているからこそ、フェミニズムに限らず平等を実現させるための運動が成立し、ある程度の効果を上げてきたわけだよね。その成果や、いつか実現できるかもしれない「平等」(もちろん完璧なそれは不可能だとしても)まで、否定することはないと思うのです。…と最後は大きな話になっちゃいましたが、かやが最近考えていたのはこういうことです。

 

 

さてさて、かやも性差に固有の効果である女らしい外見を目指してダイエットしないと。なぜならもうすぐ、恐怖の健康診断なのです…(><)

コメントはTwitterアカウント@kaya8823に頂けると幸いです。